2012年03月11日
面白いことが出来そうです!
3月11日一年の区切りなので、忘れないうちに大船渡のことをざっと。
誤解されている方も多いようですが、大船渡屋台村は、被災者集団による自治組織ではありません。
大船渡屋台村有限責任事業組合(及川裕右代表)が所有する屋台村にテナントとして屋台店主が賃借契約を結んでいます。
大家と店子の関係であり、契約書には店主は事業組合の方針に従い営業し、反逆的行為と認められた場合は退店処分もありうることが明記されています。
株式会社ならば代表取締役は人事権を掌握しているからこそ組織を統括できます。孫氏の古事にもあるように、軍の司令官が生殺与奪の権利を有していなければ縦横無尽に兵は動かせません。
非常時の大船渡において、屋台村を率いて街の活性化を成すためには必須の契約であるはずです。
震災一ヵ月後の4月、古い知人を訪ねて訪れた大船渡は中心街が根こそぎ流され、あらゆるものがごちゃごちゃ混ぜの瓦礫が散乱。かつての中心街は跡形もなく、駅舎も線路も根こそぎ流されてどこが大船渡駅だったのかもわからない。主要な道路以外まだ何も片づけが始まっていない状態でした。
異臭漂うなか、昼間から野良犬がうろつき、自転車のおじさんが何かを叫んでいる、まさに廃墟が広がっていました。
そのころ及川代表はじめ飲食店組合幹部たちは、60店中57店が流失した組合加盟店の再建策を模索していました。
私は古いクライアントの避難さきの2階建ての民家に数人が肩寄せ合って暮らしているところに、一ノ関で仕入れた酒やらおつまみやらを持って居候させてもらいました。被災者に厄介になるのは気が引けたのですが、幸い充分に大きな家だったので遠慮なくよせてもらいました。
ここには飲食店組合の副支部長も避難していましたが、すぐに毎晩夜遅くに帰ってくるようになります。
彼は店と従業員一名を津波で失っていましたが、近隣の盛地区にいち早く店を出すことに成功したのでした。
当時は開いている店はどこも連日大盛況で、大船渡市内ながら津波の及ばなかった盛地区の飲食店は連日大繁盛!前年の何倍もの売上に沸いていました。ほんのわずかな標高差が、同じ大船渡市内の飲食店に天国と地獄を生み出していたのです。
出店できるだけの貯蓄があればとにかく店を出したい。そういう気持ちにさせるだけの需要がありました。
被災者と非被災者、さらに被災者の中にも、持つものと持たざるものの間には雲泥の違いがありました。
ところで僕は船井流の経営コンサルタントとして18年間、優秀な人をさらに成長させることを生業にしてきました。
決して、弱者支援をコンサルティングしてきたわけではありません。
しかし、この大船渡の惨状を見たときにこれは違う。
ここで僕がしなければいけないことは、従来とは違う。
そう感じたのです。
元気よく自力再建できる人たちが大船渡の町を震災以前よりも面白くすることが出来るのだろうか。
僕が手伝わなくても出来る人の手伝いはしなくてもよい、それよりも自力再建できない弱者を集めて集団化したら面白い勢力になるかもしれない。
上手に指揮出来れば震災前よりも面白い街づくりが出来るかもしれない。
僕の経験知識そして仲間を総動員して、今僕がやるべきことは目の前にある気がしました。
及川さんはじめ組合幹部に提案しました。
自力再建が無理な弱者を集めて東北一の海鮮屋台村を作ろう。
東京から集客できる東北一の海鮮屋台村を作ろうと。
海が戻るまで海鮮が無理なら屋台村でいい、
事業で収益を上げて東京からでも集客できる祭りを作ろうと。
及川さんが、僕を信頼してくれるようになったと感じた6月ころ、
二人の副支部長のうち一人は自力再建し2件目の出店準備に大忙し、
もう一人の副支部長寿司屋の三ちゃんも屋台村とは別の道を行くことを決めます。
あとできいたのですが、及川さんの家族ですら夏ころまで僕を疑っていたそうです。
船井総合研究所がタダで手伝うはずがない、何か裏があるに違いないと。
そりゃそうですね、僕自身会社の業務として取り組んでいたわけではありません。
ただ、長年コンサルタントとして経験をつんだ自分だからこそ今やるべきことがある。
これをやらなければ自分の学んできたことの意味はどこへいくか。
そういう個人的な欲求がもとで動いていたのです。
ですから勿論、部下はおろか同僚にも応援は頼むことはしませんでした。
これは、船井総研の業務として取り組んだことではないし・・・。
船井総研である前にコンサルタントである自分の興味のための行動ですから。
いろいろ頼んだのは、すべて仲間達。
友人やクライアントのなかでも仲間と呼べる人たちには無償の協力をお願いしました。
結果として屋台村のことがテレビ番組や各所で取り上げられることになり、
収益はなかったけれど広報価値として少し船井総研にも貢献できたのはよかったと思っています。
話を屋台村の構造に戻しますが、大船渡を震災前より面白くするための屋台村です。
被災者支援ならば営業再開までが目的となるのでしょうが、
僕等のやりたいことはまだ始まったばかりです。
20店の屋台と、すっかり有名になったこの場所を使って街を面白くして行くために、
強制力をもった大家と店子の関係を作ったのです。
会社経営同様に構成員のモチベーションが高くなければ何事もなしえませんが、
人事権を掌握せず氾濫分子を取り除くことができなければ組織運営はできません。
屋台村の店主の多くは一本独鈷の大将ばかり、組織で仕事をした経験をもちません。
本来ならチームワークなど期待しようもないところですが、1月はイカ、2月はタラ、3月は福島応援フェアが開催され各店夫々工夫の一品を提供しています。
徐々に、この結束を高め、技術を導入し、強いチームを作って行きます。
ちなみに、代表の及川さん家族が営むホテル丸森は高台にあったので地震で傷みましたが、津波にはあわず、痛んでいるけれど営業しています。でも、自宅は津波の直撃をうけ仮設住宅暮らしです。
それでも大船渡屋台村有限責任事業組合は、組合員に配当を出さない規約を作りましたのでこの事業は彼も無報酬でやっています。
店主に対して絶対の権利を持っていますが、大家の利益を得るためではありません。リーダーシップを発揮してよりよい物を作るため、それだけのための構造と契約形態です。
及川さん地震自宅を失い、ホテルも地震でだいぶ傷んだ被災者ですが、地域のため仲間のために、獅子奮の活躍を無報酬で行っています。
たまさか3.11に飲食店組合のリーダーをしていたからだけではないはずです。
大船渡屋台村は少し早く立上った分だけ、目立っているのでメディアも取り上げてくれます。
店主達も、日本中の支援で店がもてたことに感謝し、単に自身の商売としてではなく地域のためにという気持ちで営業することが出来つつあります。
いい感じになってきました。
今年は、面白いことが出来そうです。
3月19日には、沖縄と滋賀と大阪から友達が来て屋台村でライブイベントをします。
お近くの方は是非どうぞ!
私は古いクライアントの避難さきの2階建ての民家に数人が肩寄せ合って暮らしているところに、一ノ関で仕入れた酒やらおつまみやらを持って居候させてもらいました。被災者に厄介になるのは気が引けたのですが、幸い充分に大きな家だったので遠慮なくよせてもらいました。
ここには飲食店組合の副支部長も避難していましたが、すぐに毎晩夜遅くに帰ってくるようになります。
彼は店と従業員一名を津波で失っていましたが、近隣の盛地区にいち早く店を出すことに成功したのでした。
当時は開いている店はどこも連日大盛況で、大船渡市内ながら津波の及ばなかった盛地区の飲食店は連日大繁盛!前年の何倍もの売上に沸いていました。ほんのわずかな標高差が、同じ大船渡市内の飲食店に天国と地獄を生み出していたのです。
出店できるだけの貯蓄があればとにかく店を出したい。そういう気持ちにさせるだけの需要がありました。
被災者と非被災者、さらに被災者の中にも、持つものと持たざるものの間には雲泥の違いがありました。
ところで僕は船井流の経営コンサルタントとして18年間、優秀な人をさらに成長させることを生業にしてきました。
決して、弱者支援をコンサルティングしてきたわけではありません。
しかし、この大船渡の惨状を見たときにこれは違う。
ここで僕がしなければいけないことは、従来とは違う。
そう感じたのです。
元気よく自力再建できる人たちが大船渡の町を震災以前よりも面白くすることが出来るのだろうか。
僕が手伝わなくても出来る人の手伝いはしなくてもよい、それよりも自力再建できない弱者を集めて集団化したら面白い勢力になるかもしれない。
上手に指揮出来れば震災前よりも面白い街づくりが出来るかもしれない。
僕の経験知識そして仲間を総動員して、今僕がやるべきことは目の前にある気がしました。
及川さんはじめ組合幹部に提案しました。
自力再建が無理な弱者を集めて東北一の海鮮屋台村を作ろう。
東京から集客できる東北一の海鮮屋台村を作ろうと。
海が戻るまで海鮮が無理なら屋台村でいい、
事業で収益を上げて東京からでも集客できる祭りを作ろうと。
及川さんが、僕を信頼してくれるようになったと感じた6月ころ、
二人の副支部長のうち一人は自力再建し2件目の出店準備に大忙し、
もう一人の副支部長寿司屋の三ちゃんも屋台村とは別の道を行くことを決めます。
あとできいたのですが、及川さんの家族ですら夏ころまで僕を疑っていたそうです。
船井総合研究所がタダで手伝うはずがない、何か裏があるに違いないと。
そりゃそうですね、僕自身会社の業務として取り組んでいたわけではありません。
ただ、長年コンサルタントとして経験をつんだ自分だからこそ今やるべきことがある。
これをやらなければ自分の学んできたことの意味はどこへいくか。
そういう個人的な欲求がもとで動いていたのです。
ですから勿論、部下はおろか同僚にも応援は頼むことはしませんでした。
これは、船井総研の業務として取り組んだことではないし・・・。
船井総研である前にコンサルタントである自分の興味のための行動ですから。
いろいろ頼んだのは、すべて仲間達。
友人やクライアントのなかでも仲間と呼べる人たちには無償の協力をお願いしました。
結果として屋台村のことがテレビ番組や各所で取り上げられることになり、
収益はなかったけれど広報価値として少し船井総研にも貢献できたのはよかったと思っています。
話を屋台村の構造に戻しますが、大船渡を震災前より面白くするための屋台村です。
被災者支援ならば営業再開までが目的となるのでしょうが、
僕等のやりたいことはまだ始まったばかりです。
20店の屋台と、すっかり有名になったこの場所を使って街を面白くして行くために、
強制力をもった大家と店子の関係を作ったのです。
会社経営同様に構成員のモチベーションが高くなければ何事もなしえませんが、
人事権を掌握せず氾濫分子を取り除くことができなければ組織運営はできません。
屋台村の店主の多くは一本独鈷の大将ばかり、組織で仕事をした経験をもちません。
本来ならチームワークなど期待しようもないところですが、1月はイカ、2月はタラ、3月は福島応援フェアが開催され各店夫々工夫の一品を提供しています。
徐々に、この結束を高め、技術を導入し、強いチームを作って行きます。
ちなみに、代表の及川さん家族が営むホテル丸森は高台にあったので地震で傷みましたが、津波にはあわず、痛んでいるけれど営業しています。でも、自宅は津波の直撃をうけ仮設住宅暮らしです。
それでも大船渡屋台村有限責任事業組合は、組合員に配当を出さない規約を作りましたのでこの事業は彼も無報酬でやっています。
店主に対して絶対の権利を持っていますが、大家の利益を得るためではありません。リーダーシップを発揮してよりよい物を作るため、それだけのための構造と契約形態です。
及川さん地震自宅を失い、ホテルも地震でだいぶ傷んだ被災者ですが、地域のため仲間のために、獅子奮の活躍を無報酬で行っています。
たまさか3.11に飲食店組合のリーダーをしていたからだけではないはずです。
大船渡屋台村は少し早く立上った分だけ、目立っているのでメディアも取り上げてくれます。
店主達も、日本中の支援で店がもてたことに感謝し、単に自身の商売としてではなく地域のためにという気持ちで営業することが出来つつあります。
いい感じになってきました。
今年は、面白いことが出来そうです。
3月19日には、沖縄と滋賀と大阪から友達が来て屋台村でライブイベントをします。
お近くの方は是非どうぞ!
タグ :大船渡屋台村
Posted by なるほど! at 01:02│Comments(0)
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